聖書こと「シャカリキ!」の作者である曽田正人氏の別の作品に「め組の大吾」という消防士の漫画がある。ドラマ化もされているのでシャカリより有名かもしれない。
紆余曲折あって(めちゃくちゃ端折るな)消防士になった大吾は、作中でたくさんの人を助けた。
主人公だけあって素晴らしい才能と努力ぶりなのだけど、災害現場での馬鹿力具合というか、危険を顧みない踏み込みぶりは他の人を寄せ付けないレベルであった。なぜそこまで頑張れる?なぜそこまで踏み込んでゆける?大吾は周りの人からそう問われた時に、自覚なく踏み込んでいたことに戸惑いをみせた。しかしながら大吾は気づいた。幼少期に火災に遭った自分自身の記憶、その死ぬかもしれない状況から助けてもらえた記憶。「たすけて」という自分の持っていた感情。
大吾の人助けの行動力の根源にあったもの。無意識的に「自分」の姿を重ね、その自分を助けていたのだと気づいた。
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人は自分が持っている感情を無意識のうちに行動に反映するのだと、ふと思った。10代に読んだ時にも面白いと思っていたのだけど、自分自身の行動を振り返ってみた時に、困った人に手を差し伸べるという行動は「自分が困っている時に手を差し伸べてほしい」という気持ちがあるからこそ、見て見ぬフリをできないのだと思った。
自転車の話で言えば、僕はお客さんの自転車を触らせてもらっているが「自分はここまでして欲しい」という気持ちを重ねながら作業に取り組んでいるなと思ったりした。それが必ずしも求められていることと一致するわけではないのが難しいところであるが…。
「人にしてあげること≒人にしてもらいたいこと」なのだと、妙に心に響いた。っていう日記。