会いたい人

年甲斐もなくポエちらかしたい、そんな気分なのでこれを書いている。

コロナ禍もあって、会いたい人に会える機会は限られているのだと突きつけられたのがここ最近の出来事だろう。僕の場合は東京の実家に帰ることも敬遠したし、親戚のいる田舎からは敬遠される側になり、親、兄弟、親戚ですら会うことが憚(はばか)られる状況が続いている。

そんな中、僕の中で特大のニュースが起きた。

これを書いている前日の出来事である。知人が大阪へ来ているタイミングで、久しぶりに軽く顔を合わせることにした。1年ほど前にも会っているから、彼とはそれほど久しぶりな感じはないが、元気な顔を見れてホッとする。

彼と会うまでの待ち合わせの合間、インスタグラムのストーリーをポチポチと眺めていた。

インスタグラムのストーリー、みんなも大差ないとは思うのだけど、ひとつの投稿を最後まで見ることもなくパッパと次へと見送っていくことが多いのではないだろうか?

たまたま開いていた中学校の同級生のストーリー。「納車!」という言葉にちょっと引っかかって、車屋で働いてたっけ?と思い、彼のプロフィールや過去の投稿を漁ってみるも、やっぱり車屋では働いてないな、と。「いつものアレね」と思いながらも、”縁に感謝”?みたいな一文に、誰か居たのだろうかと思ってタグ付けされていたショップのホームページを覗いてみたのだった。(待ち合わせで時間があったおかげで)

すると、そこには見覚えのある顔と名前があった。中学サッカー部(転校前)で1番仲良くしていたFの弟の姿だった。おいおい、1番仲良くしていた同級生との再開の足掛かりがこんなところに!と思ったのも束の間、次に現れたスタッフ紹介の欄には僕の同級生の姿があった。二児のパパって書いてあり、元気そうな姿に1人「ウオ〜〜、よかった〜〜〜」と静かに喜んだ。よく見るとお世話になったFのお母さんも同じ職場に勤めているようで、これはご挨拶に行かねばなるまいと思っているところである。

このインターネット上の再会に喜んでいるのはもちろん気付いている僕の方だけなのだが、脳内で島田紳助のナレーションが流れる程には感度の再会である。ひとつ、これからのやるべきことが増えた。

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中学時代は皆ケータイもほとんど持っていなかったし、SNSもなかった。個人の連絡先を持たないし、わざわざ家に電話することもなかったので、転校してしまった後は全ての同級生と連絡が途絶え、もう二度と会うことはないのかもしれないと思っていた。不思議なことに、18歳の時にアメリカの地で上の同級生とは別のサッカー部仲間と再会したことがある。連絡もゼロ、約5年ぶりの再会がアメリカ、ポートランドの地で起こり、彼はカナダへ、僕はオレゴンのアッシュランドという場所で1ヶ月過ごしたのだが、まさかまさかの帰りの飛行機の便が同じという天文学的確率の奇跡で、同じ飛行機で帰るという経験をしたことがある。(席を変えてもらい、友人と隣でお喋りをしながら帰国することができた)

18歳、縁というものを強く認識した瞬間だった。

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今までも、そこまで大規模とは言わずとも”会えたらいいのにな”と思う人とたまたま遭遇する機会は多かれ少なかれあったなぁと思う。学年が上がり、クラス替えが行われた時に好きな子と同じクラスになれた時のような、そんな感じ。

「この店で飲まん?」と誘ってみた時に、「行けるかどうかわからない。行けたら行きます。」という返答に、”行けたら行く”は行きませんやろうが、と思ったりした。当日も連絡はなく、今日はもう会うことはないだろうと期待せずに店へ足を運んだ先に、その子の姿があった。気持ちが実ることはなかったが、その子がそこに居たことに嬉しい気持ちになった。それは僕に会いに来たというわけではないにせよ、もしかしたら少しは誘ったことも影響して足を運んだのかも知れない。そういうことから、運命や縁というものは、本当の本当にたまたまということもあるのだけれど、それだけでもないのだなと思ったりする。

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人と人との繋がりは目に見えないもので繋がっている。彗星が衝突するようなこともあるし、自分のアクションで少しだけ未来を手繰り寄せることもある。

会いたい人に会えることは、自分が思っている以上に限られた貴重なことだ。偶然やタイミングが引き合わせてくれることはあるのだけれど、自分の行動で運命を少しだけ手繰り寄せることはできる。そうだとしても、会えない人は会えないのだから「会いたい人には可能な限り会っておきたいものだな」と思うのだった。